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いまさらながら、パッチギを見た

パッチギ・・・・・・今年流行った映画。

そう、今頃ビデオ借りて見た。

だいぶ前から話の筋は知っていたので、面白くないだろうなとは思っていたが、予想通り、つまらなかった。

映画の内容は、今更だから省きます。

でも、とてもじゃないが、自分からこの映画を見てくれとは進められない。
ある意味、在日がマジョリティーの波に覆われつつあることを露呈した作品だし、突き詰めて見ていけば、日本社会はこれからも排他的であることを暗示的に表明したようなものだ。

実は、バッチギのような在日と日本人の交わりを描いたドラマや映画と言うのは結構多い。
僕の記憶にある限り、20年前にそういうドラマを見た記憶がある。

ただ、一つ違うのは在日を中心にすえて描いているかどうかの違い。
つい十年ぐらい前までは日本人中心の物語の中に在日が出てきた。
で、「北に帰る帰らない」とか「国家とは何か」とか「在日は差別されてきた」とか出てきて、そういう現実に直面して葛藤する日本人がいて、それでも何とか仲良くやりたいと願い、行動する(時には、その在日が北へ帰ったりした為に思いを伝えられないと言うパターンもある)。
ある意味、在日が出てくる物語の定番パターンから、パッチギははみ出ていない。
人によっては、在日を中心に据えたのは画期的じゃないかという人もいるだろう。
だが、僕から見れば、在日を中心に据えても定番パターンを抜け出せなかったことは、在日は日本社会が敷いたレールの上に載らなければ受け入れてもらえないと言うことでもある。
言い換えれば、共生するのも自分たちのやり方に沿わなければ、認めないと言うこと。よって、共生の主導権は日本人が握る。在日には握らせない。と言っているようなもの。

日本人の持つ共生に対する考え方は、時としてマイノリティーを圧迫するときがある。だが、それをマジョリティーは気づかない。
本当は、共生したい、仲良くなりたい、と言う気持ちを出せば出すほど、すれ違いが出てくる姿を描くべきではなかったか。主人公君がラジオでリムジンガワを歌ったとき、物語はハッピーエンドに向かうべきではなかった。あんな簡単にハッピーエンドに向かったら、今頃、日本から在日外国人問題はとっくに消えてます。
付き合えば付き合うほど、現実に直面し、予想以上の葛藤が生じるのが在日外国人問題です。
もし、このブログを見た誰かが、
「そんなことは無い。私は外国人とも仲良くやってるし、何の問題も無い」と思ったならば、間違いなく、現実から目をそむけた上での考えだと僕は言います。
最近日本に来た在日外国人なら、まだ故郷の風習を色濃く残しているので、問題が目に見える形で現れるけど、在日3世・4世あたりになると、日本社会で生まれ育ったがゆえに、かえって日本人には見せない心の闇を抱えてます。それはちょっとやそっとじゃあ見せないし、見せないから日本人にも「何の問題も無く付き合ってる」と思わせてしまう。

じゃあ、何がそうさせたのか。日本社会の排他性が、心の中の蟠りを解くことなく1世・2世・3世・4世と蓄積された結果、本当の部分を見せなくなったのだ。
いわば、本音の部分を押さえつけていくことで、日本社会はマイノリティーと共生しようとしているに過ぎないと言うこと。
それは昔も今も変わらない。ただ、表面上の形を変えただけだ。

パッチギは、それをものの見事に露呈してしまった。


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